Essay: Workshop 「Earth Combinatoria Project」
エッセイ:結合合宿「Earth Combinatoria Project」
植物とは何か
今回のワークショップを経て、植物には質量的身体としての界と、それとは別の、植物自身が認知する界があるように感じた。ジュディス・バトラーの「セックスは常に既にジェンダーである」というフレーズを借りて、今回私は「植物は常に既にショクブツである」と言いたい。ヒトが植物に掛かり合う時、そこで生じるモノは常に既に、植物自身の物語である。摘もうが断とうが常にそれを物にする「植物の界」をヒトが分かるということは、一体どういうことなのだろうか。
遠い生物、分かり合えない者
接ぎ木の体験は、植物とヒトの関係の遠さを私に感じさせてくれた。しかしこれほど植物と濃密なコンタクトを取れる行為も少ないように思う。植物とヒトはあまりにも世界との関わり方が違う。ヒトは植物への親愛の情を語るが、そもそも世界への向き合いが異なるのであるから、その語りは身勝手なものかもしれない。植物には植物の愛憎があり、喜怒哀楽があるはずである(この視点も危うい)。ヒトは今一度植物に対して冷静になってもいいと思う。植物を一方的に分かった気でいるのは危ない。ここで、今回のワークショップの企画段階で「非臓物的に」というキーワードが挙がっていたことを思い出す。ヒトが人間的角度でしか対象を捉えることはできないというのは周知の通りである。ヒトは植物による●■▼や△×♢を認知できない。ヒトが植物の身体へトランスする非臓物的な態度、これに自覚的になってこそ「植物の界」への道が開けるのではないだろうか。
植物ということば以前へ
そもそも「植物」という言葉が厄介である。この言葉が現在までに獲得している象徴性のせいで私たちはかなりの部分で植物を誤解することになる。だからこそ、実体験から得た感触と、ことばによる象徴性の差異に敏感でありたい。概念そのものを味わい、知る、植物との濃密な掛かり合いが求められると思う。接ぎ木にはこの濃密さがある。非臓物的かつ濃密な掛かり合いによって、遠い「植物の界」へ歩みを進めることが出来るのではないだろうか。
それでもなお植物である絵を目指して
植物は我々ヒトの掛かり合いを受けてくれる。これこそが植物の懐の深さであろう。そして人類が探求する、まだ見ぬ植物の物語の所在である。植物の●■▼とヒトの言語のその際こそが探究の眼差しが向く領域である。植物の愛好心と共に植物の界に至る眼差しを以て、私は植物を描きたいと思った。
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